「痛いの痛いの、飛んでけ〜」

変に丁寧な言葉をつかわれても妙な距離感を感じるし、タメ口も相手によっちゃ「テメぇ〜」となるのは俺だけ?
そんな自分ときたら今だに言葉遣い、文字遣いは上手くならない、と謙遜の意も含め、思う。

(今回はHP上の件に絞らせてもらう。メールは又別。割愛、割愛。はあと。)
5W1Hを徹底し過ぎても伝達事項みたいで味気なくなってしまう気がする。
何故か不思議なのだが、わざとそういった決まり事をやや削って文を書く癖があるようだ、俺には。
癖もそうなのだが、それでも言葉は選んでいるつもりではある。
「クール&ニッキ」でも、時には一日あたり3、4つボツにしたりする。
瞬間的に出来上がったものもある。「即興実験〜(7/7)」は、仕事の昼休み10分くらいでザッと書いたものだ。
それでも、詞のように具体的な事をわざと一部隠したりするのは、やはりそういう事なのか。

普遍性、詞的なものへの憧れ。ジャーナリズム、情報、報道的文章は肌に合わない、と。

最近ときたら、新聞すら疑っている。小泉、真紀子人気を持ち上げたり落としたりするのはあまり快くは思わない。
それは飽きたり愚痴ったりしたいのも山々なのは確かではあるが、差し引きしても、かわいそうだし張本人を疲れさせるだけだ。

自負。周りに花を持たせなければ、誰も相手にしてくれない。が、本音と、そうでないものの使い分け、警告と、そうでないものの使い分け。
「心を裸に いつする?」
「ドント フィィル シンク」
とは、そういった意味を込めたつもりではある。

HPにすら神話が要る。持論です。
何でもかんでも暴きだしたり、答えを出したりするのは便利だし刺激的なんだけど、
それに慣れた果てに何が待ってるんだろう?という、うっすらとした恐れ。

自分自身の血で言葉を書く。今までそうだったし、これからもきっとそうだ。
ちなみにそういった文を書いてる人を見ると、本当に俺、弱いです。
波がグラグラ揺れる脳味噌の中、言葉を選んで人と人の間に置く。時に失敗してしまうのだが、俺はそうする。
「痛いの痛いの、飛んでけ〜」云っても、飛ばない。

けど、場合によっては痛みが和らぐ。

 辻